LAST SAMURAI

図書館にこもり雑誌をめくり続ける今日この頃。
JAの建築年鑑にガエを発見。初めて雑誌写真を見る。図面を詳細に見ると前後関係がおかしくなっていたり飛び石がなかったり。あはは。

クロアチア人の友達とLAST SAMURAIを見た。

異国の地で外国人と一緒にこれを見ることはかなり自分が一体何者なのかに対する問いを極めて潜在的に呼び起こした。
年末年始の新撰組とか赤穂浪士とか今年もか今年もかと思いながらそれでも僕らの中にはすごく潜在的に残っていたのだということに気づくのだけど、改めて僕が遠いところまで来たのだと僕らが如何に島国的な人間だったのかということを同時にもの凄く潜在的な意識レベルで感じるのだ。説明が難しいな。テーマを変えよう。

喪失感もある。

喪失感というのは極めて日本的(もしくは地獄の黙示録状態なWTC以後のアメリカも含むかもしれない)だと言えるかも知れない。敗戦国的。でも潜在的意識の中の正月番組まで戻ると赤穂浪士も人々の心には残ったけどついにお上を動かすことはできなかった。巧い日本語が分からないので今あえてそのまま言うならそれは極めて喪失的だと言える。
このLAST SAMURAIは最後の最後で極めてハリウッド的になるところが例によってリサーチをしてないけど恐らく多くの日本人の反感を買っているはず。あのラストシーンをカットするか入れるかで日本映画にもハリウッド映画にもなり得た。逆に言えばそれだけよくできた侍映画だったのだ。
話が少しずれた。
ちなみに喪失的とはこの映画を見るとすごく良く分かるけど武士道的な姿勢でもあって(ハッピーエンドが来ないことが誰の目にも明らかになる状態)、これはもしかするとある種の喪失感とは飯島さんとかの言うように敗戦を起源に持つものではなかったのではないかとすら思う。今や北野作品にも代表される喪失感はかなり潜在的に日本人の心にあったのだ。

ちなみにドイツは喪失感の喪失自体を取り戻して一見それを乗り越えたように見えた国。しかし彼らの持ち得た喪失感は喪失を隠す行為によって今なお明ら様に喪失されていく。大戦後以降なのかベトナム以降なのかWTC以降なのか分からないけど、もしかすると今や喪失感とは極めてユニバーサルに何かを創造する土壌として認められているのであって、それゆえにこの国が創造する世界から今遠くにいるのではないかとふと思った。

戦後にイミテーションとしてにつくられたこの国の建物のファサードを廃墟に見せるようなインスタレーションとかしてみたらどうかとふと思った。

そうこう書いているうちに建国記念日になってしまったというアイロニー