Lovis Corinth/Max Slevokt

お気に入りの美術館でLovis CorinthとMax Slevoktの展覧会をやっていて、僕は改めてこの時代の絵画が好きだと思ったけど、それはウィーンに行った影響がかなりあって、同じ美術館でも行くたびに惹かれる絵が変わったりするのはすごく自己発見的で面白い。
僕は完成された美しいモノはやっぱり好きでなくて、何かに挑んだり、次のステップに進もうとした結果としてカタチになっているモノが好きなのだと気づいた。その結果が成功してなくても美しくなくてもむしろ僕はその方が良くって過渡期的な、世紀末的な状況って好きなのだ。人間についてもそう。
建築について言えば挑んだ結果として美しくなっているみたいな建築家は僕の思う限り世界でH&deM, SANAA, Zumtor, FOSTERみたいなとこで分かりやすいからみんな好きなのだ。
勿論つくりたい人間にしてみたら過渡期的状況に好感を持つのはかなり一般的なことなので、あらゆるこの種の議論はどこを何と何の過渡期と定義するかという問題とも言える。
で僕は19世紀半ば以前の膨大な量の写実的な絵画とMonetとかゴッホとか印象派の絵画を完成された時代と捉えていてその間のタッチが荒くなっていくCorinth/Slevoktみたいなところを過渡期的と感じて好きなのだ。
同じようにウィーンのゼツェッションの時代をすごく好きなのも古典とモダニズムとの間にある過渡期と定義されうるからだ。
つまり建築なり美術なりの領域において何かに世間の新しい目を向かせようとするなら今が何と何の過渡期なのだというプロパガンダはかなり有効なのだ。
何と何の過渡期かな今。