ヴェネチア

初めて訪れる街に行くと人々がどこに住んでどこでどのようにして働いて生活をしていて、
でその痕跡としてどのように街が彩られているかを見ることで、僕らはその場所を街として認識するワケで、
僕はそういうのをそこで日常の風景と非日常の風景との重なりとして捉えていて、
滞在時間の長さや個人個人の経験の違いというものがその日常と非日常のボーダーを微妙に変えていくにしろ、
それがとてもうまく重なっているように見える街には例えばミュンヘンみたいにとても好感を持つのだと思うのだけど、
滞在3日の僕にとってこれだけ圧倒的に非日常の風景が広がっている状況というのはかなり気持ち悪くて、
そこにレイアウトされているいくつかの日常的風景、例えば運河の上に掛かっている洗濯物とか朝の水上バスのラッシュ風景とかも、
トゥルーマンショーの1シーンのように全て無理矢理日常性を演出するための小道具やエキストラなのではないかと
至極自然に思えてしまう程のキッチュさがヴェネチアにはあって、
この街とディズニーシーとの違いとは何なのかがよく分からなくなった。
つまり街が生きられていないと思えるときにはそれがハリボテであろうが、
歴史のあるものであろうがあまり関係がないのではないかということで、
これは逆に読むと去年MOTでやっていたバラガン展の空間の再現の試みがいかに虚しかったかということを意味する。
例えば同じイタリアでもフィレンツェではその街の建築や美術を修復して残していくことが人々の営みとなって、
街全体が生きられているという印象を少なからず感じて好感を持てるのだが、
ヴェネチアについてはゴンドラの乗り手や土産物屋の店員と鍛えられたディズニーランドのアルバイトたちの違いを
特に見いだすことができなくて、そういう印象はこの街だけがイタリアの中でも異常に物価が高いという事実にも煽られている。