モロッコ

夏の暖かい時期をドイツで過ごす渡り鳥たちがその国で越冬するのと全く同じように僕は氷点下のミュンヘンを後にし、バルセロナを経由して初のアフリカ大陸モロッコへと飛んだ。時に僕は左手で尻を拭き右手で飯を食らいベルベル人(モロッコの原住民)の衣装を身にまとい、時には砂漠からの日の出を拝み時には大西洋に沈む日を拝み、時にはヒッチハイクまがいなことをし時にはラクダの背にまたがって面積以上に広大なこの地を反時計回りにほぼ一周して帰ってきた。
街路樹にはオレンジの木が繰り返され(どこかで聞いたことある話だが)それらが何の手入れもなくおいしそうな橙の実をつけているのを見るとき僕はこの暖かい地が余りにそれを育てるのに適しすぎていることを知り、一方で旧市街の城壁の至る所に鶴の姿が繰り返されるのを見るとき僕は改めて今が真冬であることを知る。荒野にはオリーブの低木が等間隔に繰り返されて、その密度だけを変えるとき僕はそこに降る雨量の差を知り、とても人の住めないような荒野に羊たちが繰り返されるとき僕はそこに確かに住んでいるベルベル人の存在を知る。砂漠の砂の上に繰り返される模様に風向きを知り、日干し煉瓦の泥の家が繰り返されるのをみるとき僕はそこに雨が殆どないことを知る。モロッコという地を居住可能にしているのは国の中央に繰り返されるアトラス山脈の恩恵だ。モロッコ南部はほとんどが砂漠で実際に1ヶ月前に降った雨が3年ぶりだという集落を訪ねたがそんなところにも人が生活できているのはオアシスとアトラスに降る雪や雨がつくる川による。屋根がなくても雨がなければ雨に濡れずに生きていけるのだ。
メディナ(旧市街)内に荷を背負うロバの姿が繰り返されるときその中で完結している流通のコンパクトさを知り、建築装飾や絨毯やモザイクタイルや窓格子のパタンが繰り返されるとき、そこにもの凄くプリミティブな手作業の蓄積を知り、スーク(市場)に同じ品物を扱う店が繰り返されるとき僕はすぐそこにある生産の場の存在を知る。つまり生産の場がそれらの繰り返しを強制しているということだけれどそれは同時に競争社会のないイスラム世界をも示している。例えば一枚の服を買うのにその店に希望のサイズがないと隣の店から持ってきたり時には仕舞いには他の店に連れて行かれたりもする。どこまでも家族感覚だからそこに入り込むことができるとき旅は非常に楽しいものとなる。2日も同じ店に通えば必ず注文以上のサービスがあって僕も思わず財布のひもが緩くなる。
繰り返される風景は生まれたままの大地の風景だったりものすごく生きる行為に純粋なためにどれもとてもプリミティブで、かつとてもプリミティブにその風景が意味するものを僕に語りかけてくる。その応答の中にまたとてもプリミティブな世界を見た気がする。
とにかく言葉で語る以上にこの大地はいろいろな表情を含んでいて例えばバスに揺られてうとうとしていても目が覚めるたびに風景が全く異なる。街の表情も気候やそこにある素材や周辺国との距離関係によって様々に変わるのだ。陽気な気候に育まれた陽気なモロッコ人たちもかなり楽しい。この国の旅行者にリピーターが多いというのも頷ける気がする。何だかガイドブックのコメントのようになってしまったが本当にオススメにつきチャンスのある方はぜひ。