成長を止めた社会におけるプログラムのありかたについて

ミュンヘンからAusmipのプログラムで千葉大と東大に4ヶ月ずつ留学する友達のトーマス・ミュラーが日本に来て3日ほど僕のうちに泊まっているのだが彼の名前はドイツでは鈴木一郎みたいなベタさを持っている。


買い物ついでに秋葉原を案内した後で広告の余ったスペースからふと世界規模の経済不況の話になり、僕らは中国が発展しきった後の資本主義経済の行方について話しながら途方に暮れたのは、資本主義経済が人間の欲望を前提にしているからで、僕自身がドイツでのゆったりとした生活の体験からそこまで野心を持てなくなっていることに気づいたからだ。
夜のニュースでは倒産寸前の日本企業を買収した中国の実業家がテレビに映っていて、僕は久々にギラギラした人間を見た気がした。


でももし仮に僕らがそういった欲望や野心からずっと離れたライフスタイルを選ぶとしたら、アクティビティやプログラムのレイアウトはそれほど明確でなくなり合理的でなくなって、いろいろなものが偶然を装ってレイアウトされた状態になるだろうというひとつの結果を、僕は英語表記の地図を探しに寄った2度目の丸の内オアゾとオフィス街の関係に見いだしたような気がした。
だから今まで僕は新しい丸ビルの出現はあそこの社会性を変えたと思っていたけれど、実はそれは社会の方から要求されていた事でそういったポストモダニズム社会のひとつの具現化に過ぎないのではないかというのが今日僕がふと思った事のひとつでだから何なんだ。