原っぱと遊園地/青木淳

原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か
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その中で設計するということを考えれば、課題はおそらく大きくいってふたつに分かれる。第1の課題がひとつの生活をどのように「分割」するかであり、第2の課題がすでにバラバラになってしまった要素どうしをどうつないでどう全体をつくっていくか、である。
多くの建築家がこれらについて最も美しい解を出そうと試みてきた。前者の好例は、たとえばミース・ファン・デル・ローエの「ファンズワース邸」である。生活の総体はあらかじめ完結したもの(美しいガラスの箱)として与えられる。そして、近代人がそれを「分割」してきたのと同じ手つきで、生活の総体を最小限の方法で最小限に分割する。わずかにほどこされた「分割」によって、逆にその行為が浮かび上がる。これに対して、ル・コルビュジェが「チャンディガール」で試みたのは(もっとも住宅でではないが)、主に後者の課題である。彼は分割された要素をつなぐものとしての動線空間を逆に(ホールとして)肥大化した。そうすることで、分割された要素は、動線空間という均質空間の海の中に浮かぶ島になったのである。


ある面が「境界面」になる。そのとき「こちら側」と「向こう側」が現れ、空間の奥行きあるいは連続感が生まれる。こういう「境界面」は空間を切断するものではなくて、逆に連続感を与えるものである。もちろんそれは物理的な連続によって実現された連続感ではない。体験的な、というか、現象としての連続感と言ってよいものである。


この形式を解体するという姿勢で、つくることもできる。でもぼくは、先に書いたように形式に従うという姿勢でつくりたいと思う。そのことを指して、ぼくは勝手に「リノベーション」と呼んでいるのだけれど、それはつまり、形式に従いながら、それを内部からねじ曲げることである。
2000年、東京都現代美術館で、三宅一生のすばらしい展覧会が開かれた。三宅一生は、服というものがもっている形式を、「一枚の布」という根源まで遡ることで、それを解体しようとしてきたデザイナーである。あらかじめ確立されている服という形式はない。彼は根源に戻って、形式を自分でつくりだそうとしてきた。彼の前には、広大な白紙がひろがっている。展覧会では、服が一枚の布からどうつくられるか、その独自の方法によって、どのような服の形式が生まれてくるのか、そこに問題を絞って、すべての展示が明快かつ美しく統御されていた。