コラージュ・シティ/C.ロウ

ISBN:4306061124
再読。結局僕らは未だにヴェンチューリとロウの議論の手のひらの上だとよく思う。

ファサード(アムステルダム・サウスの)はパブリックとプライベートの境界をうまく定めているとは言いがたい。それは曖昧模糊としている。また18世紀のエジンバラファサードに比べても、そのファサードはプライベートの領域の隠し方が下手である。というのは、ファサードの後ろ側にあるものがいまでは重要な現実となったからである。都市の母体は連続するソリッドから連続するヴォイドへと変容をとげることとなった。

形式の主たる利点は何かというと、強者と弱者、統治者と人民の間の障壁として機能し、一方を遅らせることによって他方に自身を点検する猶予を与えることにある。政府がより活動的で強力になり、個人が怠惰で無力なものになるに比例して形式の重要性は増してくる(アレクシス・デュ・トクヴィル)

自転車のハンドルとサドルから僕は雄牛の頭を作ったけれど、それは誰が見ても雄牛の頭に見える代物だったわけだ。こうしてメタモルフォーゼは完了したのだ。そこで僕は今度は反対方向にもうひとつのメタモルフォーシスを発生させようと考えた。僕の作った雄牛の頭がゴミ捨て場に投げられたとしよう。多分そのうちの誰かがやってきて「なぜここに僕の自転車のハンドルにぴったりのものが転がっているのだろう・・・」とつぶやくかもしれない。こういう具合に二重のメタモルフォーシスは達成されるというわけさ。(ピカソ)

「コラージュは周期性を持ち、職人の技能が消滅に瀕するときに発生し、ブリコラージュを思索の領域に置換する以外の何ものでもない」ということになるが、20世紀の建築家がブリコルールとは正反対の方向を目指してきたことを思い起こすなら、そこに20世紀のあまたの大発見と比較して建築家の不毛の一因を認めるはずである。

コラージュは一般的にいって世の中の余りものに着目し、その元のままの状態を保ちつつそれに品位を与え、日常性と思想性とを複合する手法であるので、ひとつの社会通念として、また社会通念に対する違反行為として、予想を裏切るような使われ方をする必要がある。

コラージュ的なアプローチ、オブジェクトをその本来の文脈から微用する、あるいは誘い出す手法こそ今日ではユートピアと伝統の、どちらかのまた両方の究極的な問題を取り扱いうる唯一の方法である。

コラージュはアイロニーによってその価値を導き出す方法であり、それはものを使用しながら同時にものを信じないといった技法のように思われるので、それはユートピアをイメージとしてのみ取り扱うこと、またユートピアの全体として受け入れることなく断片として取り扱うことを許容させる戦略ということもできる。