食のクオリア/茂木健一郎

食のクオリア
味わうのは脳か、舌か。という帯のコメントに凝縮されてる通り、脳科学者茂木さんの食に関するエッセイ集。
話はまず新しい物を食べてみようとした人間の挑戦に遡るのだが、
その瞬間に僕らが食に対してどれだけその根源的な部分をおざなりにしてしまっているかを知る。
問題の納豆だって、確かにこれを初めて食べた人って面白いと思うし、
そういうたくさんのネオフィリア(新しい物に対する好奇心)の上に今の食文化があることを
僕らは完全に忘れている。
そして食べるものそのものだけでなくその回りにもたくさん食を豊かにしてくれる要素があることに
気づかされる一冊。


1食1万円の洗練されたコース料理より山の上で食う握り飯の旨さを論理的に語れる茂木さんて
本当の意味で豊かな人間だと思う。

例えば、適当な文字の列が、ちゃんとした英語の言葉になっているかを判断させる課題をやらせる時、あらかじめ関連する単語を見せておくと判断が速くなる。「学生」studentが正しい単語であるという判断は、あらかじめ「先生」teacherという単語を見せておいた時の方が、関係のない「松明」torchという単語を見せておいた時より早くなる。このようなプライミングの効果は人間の認知過程のさまざまな側面において観察されることが知られている。


もともと、私たちはお互いが何を感じているかということは決して知ることができない。(中略)それにもかかわらず、場を共有している人たちの間で「食事が楽しい」というような気分が伝搬していく背景には、本来是って位的にプライヴェートな感覚の壁をこえてノンヴァーバルなコミュニケーションを実現する脳のメカニズムがある。(中略)痛がっている人を見るだけで、「痛い」という感覚自体が伝わってしまうことはない。しかし、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いた研究によると、痛がっている人を見ている人の脳の中では、「痛み」の感覚を支える体勢感覚野の活動なしに、前頭葉の前部帯状回を中心とする「痛みの感情的効果」をもたらす領域の活動が見られるということが判明したのである。


近年の研究によりドーパミンは、驚きや不確実性といった、予定調和ではない刺激に対しても多く放出されることが分かっている。レストランのシェフや割烹の料理人が、常連客に対して時に驚きの演出をするのは、思わぬ歓びが脳の嗜好性のネットワークを活性化し、新たなおいしさにつながるということを経験からしっているからではないだろうか。


「記憶」とは、すなわち、過去の体験が脳の神経細胞の間の結合パターンに残した痕跡のことである。つまりは、ある時点で存在している神経細胞うしの結合の様式が記憶である。私たちは、ついつい、自分が生まれ落ちてから実際に体験したことの痕跡のみが「記憶」であると思いがちである、しかし、ある時点で存在している神経細胞の結合パターンが記憶であるという視点に立てば、記憶の範囲は一気に広がる。長い進化の過程で、人間の脳が現在のような形に作り上げられてきた、その痕跡も、広義の記憶といって良いのである。


多くのことを共有しているはずなのに、具体的には思い出せない。そのような過去の体験の総体に対する漠然とした志向性を、私たちは「懐かしさ」と呼ぶのである。


「欠乏と飽食」の問題は、食料が物理的に存在するかという「量」の問題だけではないことが見えてくる。私たちが食に接する上で、待つことや、準備することや、こしらえることといった所作にどれくらいゆったりとした時間を費やしているかという、「時間の文化」が関わってくるのである。