ドーン/平野啓一郎

ドーン (100周年書き下ろし)

ドーン (100周年書き下ろし)

これはすごい。
面白いという定義が単にエンターテインメントとしての強度よりも
ブログに書くためのネタがたくさんあるみたいなコミットメントしやすさ、
に変わってきていることまで踏まえて平野さんは書いていて
そういう意味でとても面白かった。
30年後の未来を描いた近未来SF。


ディヴィジュアル(dividual)=分人
という考え方が出てくる。
もともと個人=individualはこれ以上divideできない(=in-dividual)単位として個人なわけだけど
そうでなく個人は相対する人との関係ごとに分人をつくってるっていう個人の捉え方。


これは僕も昔考えたことがあって、
大人になっていくほどいろいろな付き合いがふえて、
それごとの立ち振る舞いも変える必要が出てくるわけで
そしてそういうのが下手な人ほど、
いろいろな自分ができることに抵抗があるので
そういう自分を表裏があるというのではなくて
分人(と言葉で定義したことはなかったけど)がたくさんできる
ような解釈の仕方で自分を納得させていた気がする。


でもこの考え方は僕の中ではもう破綻してしまっていて
それは結局、本当に好きな人が2人できてしまったときに
分人とは個人を完全に分割したものではなくて
ツリー状に分人を束ねるものがやっぱり存在するという事実から
逃げられなくて(だから盛り上がったりするんだけどw)
最近は不器用な自分さらけ出すことに抵抗がなくなったのもあってw
分人主義者ではなくなったかな。


この分人主義をバックアップするテクノロジーとして
自分で好きに顔を変えられる可塑整形というのが出てきていて
場所ごとにまったく新しい自分として振舞えたら面白いとは思うけど
何を信じたらいいかもう分からなくなっちゃうから
僕ならきっと分人を束ねている個人の方が崩壊しちゃう。


でもこの本に関するインタビューで平野さんが
分人とは相手との関係によって生まれるものであって
どの相手といるときの自分の分人が好きかで
相手との関係を推し量るといいと言っていて
これにはすごく共感します。
彼がすごいのはちゃんと反分人主義の意見も書いて
この本の中でこの考え方をちゃんと戦わせているところ。
哲学のスタディとしての文学。

誰もが自分の中のすべてのディヴィジュアルに満足することなどできない。しかし、一つでも満更でもないディヴィジュアルがあれば、それを足場にして生きていくことができるはずだ。


僕は個人の分割と統合のフィードバックを繰り返してきたと言ってもいいかもしれないかな。
それはやっぱりいろいろな人に出会っていろいろな価値観に触れることが
一番大きかったと思う。
で、結局今どうなっているかっていうと
自分の正しいと思う分人だけを信じて
そこに統合集約した自分を開いていくことにしたってことかな。

今ある多様性を善しとする一方で、世界をより正しい、ある方向へと導いていくためにはどうすればいいのか。政治の永遠の矛盾だよ。一人一人の個性を絶対的に認めるならば、徹底した現状肯定しかない。


クリアだと思う。再帰的近代。
これを乗り越える時代になりつつあるんだと感じている。
近代という括りは今終わりつつあるんだろう。