機能性からはみ出すこと

今住んでいるところもそうなのだけれどこっちで異常にお世話になっている限りなく天然系でクリアな愛すべき N村氏の友達つながりで今日はミュンヘン在住の日本人にとてもたくさんあったのだけれど、たとえばパン職人の修行をするためにこっちに来たけど朝が早いので今はやめてサーフミュージックのバンドをやっているだけならまだしもイタリアにツアーにまで行っちゃう35の人とかそのバンドにヘルプでドラムを叩いている45で独り身のすし職人のおっさんとかがいて彼らのライブを街の中心の広場で楽しんだのだが、こっちに長くいる人というのは皆そろって変で、それが何をきっかけにしてああいう風になるのかというのはN村氏との間でも話したけれどよく分からなくて僕はふと1年後の自分がそのようになっていることを想像して意外とあり得るのではないかと思い、そいつはかなりむかつく範疇の人間だと思った。
で、今日会った日本人の中で唯一若くて僕と同い年の男の子でアカデミーでジュエリーをつくっている人がいるんだけど、それが商品としてでなく現代美術として造っているというのを聞いて僕はうまいこと想像できなくて返答に困った。


というのも僕は美術の現代性とは一言で言うなら理不尽さに集約されると思っていてそれは機能的であったり写実的であったりすることから如何に距離をおけるかということじゃないかということで、例えばこの前ドイツの建築解体現場というのを見たときにそこで使われている道具が日本のものとほとんど一緒で、そういうのを見ると機能性はデザインを収束させるのだと思うのだけど、そうやって収束したものを「別の視点」から掘っていって結果として機能性が失われたような状態を僕は現代美術的だと思っていた。


だから初めから装飾品であるジュエリーをどうデザインすると現代美術的になっていくのかがうまいこと想像できなかったのだが、あとからN村氏にコンクリートのネックレスとかセロハンテープの指輪とか、身につけることもできないようなものらしいというのを聞いてなるほど、ジュエリーにも「身につける」という機能があったかとものすごく納得した気がする。単なる無知なだけだけど。