比較可能な社会の中で

ところで僕が書いた論文というのはファサードにおける、ある尺度の固定と変動によってつくられることで
比較可能になるデザイン論だったのだけれど、
t元師がこれは現代建築の潮流をよくとらえていると言ったように
何かが比較可能になる状態というのは
現代建築のみならず、現代社会をもよく反映しているのだと僕は思っている。
つまり一億中産階級をスタート地点に持つ僕たちの世代は
情報にあふれ、常に何かを比較できる社会の中で
ものを見るときには他のものとの比較によってのみ
それを位置づけることができるのだと僕は思うのだ。
昔だって財閥も農民もあったろうに、今になって経済格差が実感されているのは
情報がいかに僕らにとってフラットであるかということに他ならなくて
そしてそうしたフラットな社会が次に用意したのが
比較可能な社会だったのだと思う。