建築家とインテリア

中国はスケルトンと内装の仕事を完全に分ける。従来の建築家の価値観からすると、そのやり方でいい建築なんかできやしないと思える。でもそういうやり方は逆に言えば建築家を引きこもらせないいい方法なのかもしれない。


つまり建築家はインテリアがない状態でも作品にしなければいけない。都市のインターフェイスとしての建築の何たるかが必然的に求められる。建築家を部屋の奥から窓際に引っ張り出してくるいい機会にはなる。


インテリアが人間(あるいは身体)と建築のインターフェイスだとして、建築のことを忘れられたとき、その自由度はまだかなり高い。一転建築に寄ってしまうと、選択肢は非常に限られた。しかし逆に自由度が高すぎると、得てして建築家は戸惑う。
つまり建築のインテリアが建築と身体の間にあるものとしたとき、建築の価値観は既にかなり決まっているものだか、身体の価値観は無限大に広がってる。


それに気づかないで建築に嘘がつけないと狭い選択肢に追い込むのが建築家、そもそも身体との関係として考えられるのがインテリアデザイナーなのだと今回思った。