建築と祝祭性について

crz_joe2011-05-19

準備が着々と進むチェルシーフラワーショーが開催される場所は、元々チェルシーロイヤルホスピタルという病院の大きな庭園。ヨーロッパの人の仮設イベントに対するエネルギーの注ぎ方はいつ見てもすごい。たかだか一週間弱展示される200平米の庭のために、おそらく三千万くらいのお金がつぎ込まれてる。都市がステイブルだから仮設に力が行くのだろう。


東京にこういうことができるスペースがどれくらいあるか考える。日比谷公園ではちょくちょくイベントがあるけど、あまり御苑とか代々木公園とか皇居前とかは活用されない。道路の占用許可を警察が容易に出してくれないとか、自治体が公園の使用許可をなかなか出さないみたいな話はあるのだろうけど、それはそもそも慣習的になかったから異例な扱いなのだ。逆説的に考えると、東京はステイブルじゃないから仮設イベントが少ないのかもしれない。


そこで東京の街そのものが仮設と言い換えてみる。式年遷宮のように建築行為、解体行為こそが祝祭だという見方ができる。たとえば新築したらもっと地域を巻きこんで盛大に祝うとか、解体前の期間にスペースを利用してアートイベントをするとかお別れパーティーを華やかに行うとか、そういうベクトルはとても日本らしいのじゃないか。建物を最後にアーティストインレジデンスにして、完成した作品を一週間見て回れるイベントとかができたら面白い。そして解体を盛大に悲しむ。建築の葬式のような行為として。少なくとも赤坂プリンスなんかは、君がいなくなると思うととても寂しくなると、僕は伝えたい。