思考停止をデザインせよ

このまえどうにもならないときに思考停止したくなるという生理現象についてつぶやいたんだけど、その後つぶやきたかったことをちょっと整理してみる。これは10年以上前から、面白いと感覚的に感じたものが、どう面白いのかを言葉で説明しようと積み重ねてきた僕の所業のひとつのまとめでもある。


そういう所業の結論として、以前世界の捉え方には、正しいか(左脳的)、楽しいか(右脳的)、カワイイ/エロ(思考停止)しかないのではないかと書いた。同時になぜか思考停止が経済に結びついてるとも言った。


基本的にこれまで僕は思考停止を「悪」だと思っていて、某アイドルプロデューサーとか完全に政府から国民を思考停止させるために派遣されたエージェントじゃないかと思っていたのだが、そうじゃないんだとふと気づいた。自分の中にいかに思考停止をデザインするかが大事なのだ。


建築の設計などは思考停止の連続である。すべてのことを同時に考えようとすると、建築の設計というのはもう非常に複雑で混みいっている。なので僕らは段階的に考えて、考え終わったら思考停止し、次のステップに進む。プロセス論というのはまさにこのことだ。思考停止の方法論と言い換えてもいい。


設計していく上で、何をもって自分が思考停止状態に入るかというのを、ちゃんと自覚している人は、場当たり的な設計にならないだろうし、自分の設計を方法論として語れるはずだ。そしてこれは建築の設計にだけとどまらず、どこで思考停止しているかを考えると自分の生き方というのはよく見えてくる。


たとえば、(思考停止を悪だと思っていないということを前提に聞いて欲しいのだけど)脱原発だといってデモに参加する人の多くはそこで思考停止を起こしている。思考停止しないと複雑な状況を悶々と考えて、心の平穏を保てなくなるから、これはこれですごく正しい思考停止のデザイン。


もうちょっと言うと即座の原発停止を求めていない人というのは、そもそも確率的に高い余震が起きて福島がもう一度波に飲まれれば東日本は終わりなのだから、これまで同様に地震が起こるという可能性には思考停止して、一旦ちゃんと経済を回して対策を講じようという人たちだと言える。


閑話休題。たとえば大きな設計事務所に勤めていれば、建築と経済のあり方については思考停止できて、その分設計に打ち込めるとも言えるし、独立すれば、どう建築が社会に成立して経済活動になるのかについて当然考えないといけなくなるが、組織の中の政治的な状況などからは思考停止できる。


建築が今後社会の中で余っていくことを前提にすれば、建築の成立について思考停止できないと思うのは必然だが、移民の受け入れとか東京じゃなく地方に需要が出るだろうとか地震のこととかを考えれば、まだまだ需要があるだろうという思考停止もまたあり得る。


何に思考停止して、何を考えたいのか、自分に問うてみると、そこに自分のライフスタイルや設計思想が見えてくる。おそらく思考停止は基本的に生理現象として避けられないことで、思考停止をもう一度思考すると、生き延びるためのアイディアがたくさん詰まっているはず、ってなんか茂木さんみたいだな(終)。