建築の大転換/中沢新一 伊東豊雄

建築の大転換

建築の大転換

コルビュジェ重農主義だと感じることがあります。伊東

交叉(キアスム)とは、主体と客体が相互に交叉して一体になってしまう、そういう空間がつくられるわけです。最初に言いだしたのはヴァレリーですけれども、それを哲学者のメルロ=ポンティが発達させました。中沢

海は知的ではないんだよ。藤森

二十世紀建築は自然と歴史を外部に置いて建築をつくる論理を立ててきた。究極的には数学をもとにした建築。自然を批判したわけでも、興味がないと言ったわけでもまったくなくて、ただ触れなかった。触れたとたんにおそらく自分たちの論理が崩れることを、二十世紀建築の担い手たちは敏感に分かっていたからに違いない。自然と歴史の二つが二十世紀建築と全然違う原理だとわかっていた。藤森

今のグローバリズムの原則をざっと整理するとこうなります。
欲望する個人が出発点である。
経済活動の外部性、すなわち自然のことは無視する。
生産は瞬間的に行われる。
この原則、ほとんど近代建築の原則と同じです。中沢

日本も含め、人間の文明は第一種交換(等価交換)を原理として動いてきました。第一種交換から必然的に貨幣が発生しましたし、この貨幣は中小物ですから、この抽象物を扱ってゲームを行うことが可能になってきます。こうしてグローバル資本主義にいたりました。一方、エネルギーを取り出す面においても、本来生体圏の外部にある核エネルギーを核反応という形で取り出す形態に依存してきました。しかし、この両方ともが、生態圏内にある生物である人間が本来あるべき形から外れているのは明らかです。
グローバル資本主義のあり方、原子力エネルギーのあり方から撤退し、本来あるべきエネルギーの形態(中略)、生体圏の内部からエネルギーを取り出していくエネルギーへの移行は必然であり当然のことです。
また、経済システムがそれに合わせて変動を起こすならば、第一種交換だけに依拠したグローバル資本主義を脱却して、第二種交換である贈与関係を組み込んだ経済システムへ移行していかなければならないことも、また必然であり当然なのです。中沢


血痕は入れ歯と同じである、という話があります。世の中には「入れ歯が合う人」と「合わない人」がいる。合う人は作った入れ歯が一発で合う。合わない人はいくら作り直しても合わない。マインドセットの問題なんです。
自分の口に合うように入れ歯を作り替えようとする人間はたぶん永遠に「ジャストフィットする入れ歯」に会うことができないで、歯科医を転々とする。それに対して、「与えられた入れ歯」をとりあえずの与件として受け容れ、与えられた条件のもとで最高のパフォーンマンスをするように自分の口腔中の筋肉や関節の使い方を工夫する人は、そこそこの入れ歯をもらったら、「ああ、これでいいです。あとは自分でなんとかしますから」ということになる。そして、ほんとうにそれでなんとかなっちゃうんです。中沢


「たちが悪い」と思ったのは、この「知っているくせに知らないふりをして、イノセントに驚愕してみせる」ということそれ自体がきわめてテレビ的な手法だったということです。中沢


おのれの無知や無能を言い立てて、まず「免責特権」を確保し、その上で、「被害者」の立場から、出来事について勝手なコメントをする。
でも、僕はメディアが「庶民の代表」みたいな顔つき、言葉遣いをしてみせるのはおかしいだろうと思うのです。むずかしい大学を出て、たいへんな倍率の入社試験に合格して、自在に現場を飛び回り、潤沢な第一次情報を手にしているジャーナリストが、責任逃れをするときに「無知や無能」で武装するというのは、ことの筋目が違うでしょう。中沢



市民の仕事はただ「文句をつける」だけでよい、と。制度の瑕疵をうるさく言い立て、容赦ない批判を向けることが市民の責務なのである、と。そういう考え方が社会全体に蔓延したことによって、医療も教育も今、崩れかけています。中沢


週刊誌や月刊誌の記者の場合だと、他社の雑誌記事を示して、「世間ではこんなことが起きているらしいっですが…」と、具体的現実そのものではなく、「報道されているもの」を平気で第一次資料として取り出してくる。僕はこれがメディアの暴走の基本構造だと思います。中沢


書籍というのは「買い置き」されることによってはじめて教化的に機能するものだと思っています。僕たちは「今読みたい本」を買うわけではありません。そうではなくて「いずれ読まねばならぬ本」を買うのです。それらの「いずれ読まねばならぬ本」を「読みたい」と実感し、「読める」だけのリテラシーを備えた、そんな「十分に知性的・情緒的に成熟を果たした自分」にいつかなりたいという欲望が僕たちをある種の書物を書棚に配架する行動へ向かわせるのです。中沢


メディアの危機に際会して、僕がいちばん痛切に感じるのは、この「これは私宛の贈り物ではないか?」という自問がどれほどたいせつなものかを僕たちが忘れ始めていることです。この自問の習慣のことを、かつてクロード・レヴィ=ストロースは「ブリコルール」という言葉で説明したことがあります。「ブリコルール」というのはフランス語で「日曜大工」とか「器用仕事をする人」とかいうことですけれど、要するに「手元にある、ありあわせものもので、なんとか当座の用事を間に合わせてしまう人」ということです。資源の乏しい環境に置かれた人間は「ブリコルール」的に生きる他ありません。中沢



人が「無意味」だと思って見逃し、捨て置きそうなものを、「なんだかわからないけれど、自分宛ての贈り物ではないか」と思った人間は生き延びる確率が高い。
この後期資本主義社会の中で、めまぐるしく商品とサービスが行き交う市場経済の中で、この「なんだかわからないもの」の価値と有用性を先駆的に感知する感受性は、とことん磨り減ってしまいました。
「私は贈与を受けた」と思いなす能力、それは言い換えれば、疎遠であり不毛であると見なされる環境から、それにもかかわらず自分にとって有用なものを先駆的に直感し、拾い上げる能力のことです。
ことあるごとに「これは私宛の贈り物だろうか?」と自問し、反対給付義務を覚えるような人間を作り出すこと、それはほとんど「類的な義務」だろうと僕は思います。中沢